東京から新幹線でわずか1時間強。富士山と駿河湾を擁し、日本一の高低差を誇る風土に抱かれた街・沼津に、沼津倶楽部があります。大正2年(1913年)に建てられた数寄屋造りの茶亭「松岩亭」を核に、2008年には建築家・渡辺明氏が設計した宿泊棟が加わり、百年を超える数寄屋造りと見事な調和を生み出しています。文化財でありながら、規制線も入場料もない。実際に座って、触れて、食事ができる。そんな体験の場として、この建物は今も生きています。8室だけの小さな宿を舞台に、地元スタッフたちが沼津への愛を持ち寄りながら、ゲストとの距離を丁寧に縮めていく。副支配人・赤間さんと、広報PR担当・山口さんの言葉には、歴史ある建物を「沼津のシンボル」へと育てていこうとする静かな情熱と、この場所でしか生まれないホスピタリティの姿が滲んでいます。「文化財なのに、触れる」という場所——沼津倶楽部はどのような場所ですか?赤間:この建物は大正2年に建てられた数寄屋造りで、沼津の文化財に指定されています。ミツワ石鹸で財をなした茶人・三輪善兵衛氏が「千人茶会を催したい」という想いから建てた「松岩亭」が、沼津倶楽部のストーリーの始まりです。文化財というのは、通常は入場料がかかったり、「ここから先は入らないでください」「触らないでください」と規制線が張られていたりするものですよね。でも、ここにはそれがない。実際に中に入って、座って、食事もできる。宿泊ではなくお食事だけのお客様にも、毎回館内ツアーをご案内しています。そういう施設って、僕はすごく珍しいと感じていて。ただの文化財ではなく、実際に入って体験して座ってもらえる。その付加価値がものすごくある建物だと思っています。2008年には建築家・渡辺明氏が設計した宿泊棟が加わり、今のかたちになりました。大正の数寄屋造りと渡辺氏のモダンな建築が同じ敷地に共存しているギャップも、ここならではの面白さです。建築家やデザイナー、映画監督といったクリエイターのゲストが多いのも、そのあたりに理由があるんじゃないかと思っています。山口: 私はこのプロジェクトに関わるまで、正直、沼津のことをよく知りませんでした。広報という立場でコンテンツを調べていくうちに、東京から1時間でこれだけのどかで自然豊かな場所に来られることに気づいて驚きました。富士山と駿河湾があって、日本一の高低差がある地域でもある。その風土があることで、多くの自然の恵みが生まれている。建物がこれだけ美しく残っているのも、歴史的に見てこの地がアメリカの爆撃を免れたことと無関係ではありません。街がそのまま残っているからこそ、建物もストーリーも残っている。そういう文脈ごと伝えていけるのが、この場所の面白さだと思っています。「沼津といえば沼津倶楽部」を目指して——なぜこの施設の運営を引き継ぐことになったのですか?山口: 私たちの会社はもともと街づくりに関わってきましたが、スクラップアンドビルドで壊して新しく建てることで街が均一化されてしまうことへの疑問を、ずっと持っていました。なるべくそのまちの良さを残す視点で企画を提案していこうという考え方なのですが、ご縁をいただき沼津倶楽部の経営と運営を継承することとなりました。この建物には、もう再現性がありません。その事業継承ができるというのは、会社にとっての大きなチャレンジでもあり、社会的意義のあることでもある。この沼津倶楽部をきっかけに、都内だけでなく地方にも視点を広げて事業にチャレンジしていこうと、会社の考え方も変化していきました。赤間: 私は東京出身で、こういう歴史的な建物や空間に触れる機会は旅行の時くらいしかありませんでした。だから、「こういう場所があって、体験できて、食事もできる」ということを、全国の方にもっと知っていただきたい。今は「沼津といえば沼津港」という認知が強いと思いますが、いつか「沼津といえば沼津倶楽部」と言われるようなシンボルになれたら。それがこの先に向けての目標です。「どこか良いところない?」と地元スタッフに聞く毎日——スタッフの構成について教えてください。赤間: メンバーのほとんどは地元で、沼津・三島・伊豆あたりの方で構成されています。東京など違うエリアから来ているメンバーは何人かいますが、9割くらいは地元の方です。僕よりよっぽどこの地域のことを知っているので、「どこか良いところない?」とよく周りのスタッフに聞いています。地形や地理的な部分、地元のストーリーも、みんなよく分かっている。やっぱり地元愛って強い。沼津倶楽部で働いて、もっといろんな人に知ってもらいたいという気持ちは、多分僕以上にみんな持っていると思います。「地元のこれを使いたいんだ」と提案をもらう時もすごく刺激になるし、自分の視野が広がる。外から来た僕は、かなり感化されています。お茶もそうですし、クラフトのお酒もいっぱい出てきているので、三島・御殿場あたりまで少し範囲を広げながら、なるべく地のものをレストランやお部屋のミニバーでもご提供するようにしています。自分で調べて知ったもの以外にもどんどん出てくるので、地元の人が働いてくれてありがたいんです。山口: 例えばスパプログラムを作った際にも、地元のお茶を使おうという発想が自然と出てきます。沼津の松蔭寺には禅を広めた白隠禅師という住職がいた歴史があって、「お茶と禅」のように地域の食材を通して文化を発信できる。そういう取り組みが積み重なることで、ここで働く人が「自分たちの地域にこんな素晴らしいものがある」と誇れるようになっていく。シビックプライドに繋がっていければ嬉しいです。”何もしない”ために来る人たちへ——ゲストにはどのような方が多いですか?赤間: 多分、何もしたくないんじゃないかな?言い方がちょっと変ですが、何もしない時間を大切にしている方が多い気がしています。宿泊ゲストの9割が国内で、そのうち7割が東京の方です。8室のうちテレビがあるのは2室だけです。いわゆるデジタルデトックスのような感覚で、美味しいご飯を食べて、ゆっくり過ごして翌朝帰るという方が多い。沼津倶楽部に来てリラックスすること自体が目的になっています。インバウンドの方も同じで、日本に2週間・1ヶ月と滞在して東京・京都・大阪・福岡などメジャーな場所には行っているけれど、「自分たちも外国人だけど、どこも外国人だらけで疲れてしまった」という方が、この沼津の静かさを気に入ってくださっています。日本人も外国人も、求めているものは同じなんだなと思います。山口: 伝統的な日本建築とモダンな建築のギャップは、クリエイターの方には特に刺さるようです。和のテイストと、デザイン性の高いモダンな空間の両方が同じ敷地の中で楽しめる場所って、あまりないと思っていて。建築家やデザイナー、映画監督など、空間を職業とする方のゲストも多いです。——空間づくりや接客で意識していることを教えてください。赤間: スタッフに一番リクエストしていることは、「かしこまりすぎない」ということです。ディナーをすると1人2万円前後という価格帯なので雰囲気は大切にしますが、サービスやコミュニケーションが硬すぎるとお客様も緊張してしまう。積極的にコミュニケーションをとってほしいんです。15時のチェックインから翌朝11時のチェックアウトまで、スタッフとお客様の距離がどれだけ縮まったか。それが僕にとっての大事な指標です。「海が綺麗なのでぜひ行ってみてください」、もうこういうレベルの一言でいい。この一言があるかないかで感じ方は変わってくるし、この積み重ねがチェックアウト後の印象をまったく変えます。ただ泊まって良かっただけではなく、ここに来てこんな体験が記憶に残って楽しかったな。そう思って帰っていただきたいんです。山口: 空間については、リニューアルのタイミングでも「なるべく手を加えずに残す」ことを大切にしました。リペアして、良いものを良いかたちで長く使っていく。ホテルによってはタブレットがあったり、鍵が電子だったりしますが、そういった気軽さや手軽さよりも、自分で触れる体験やアナログに戻る時間。デジタルから少し距離を置く"不便さ"も、ここではある種のラグジュアリーだと思って大切にしています。仲間を思いやれる人が、お客様にも寄り添える——どのような方と一緒に働きたいですか?赤間: すごく抽象的な言い方をすると、「超元気な人」ですね。体力的な元気というよりは、精神も含めた総合的な意味で。そして、自分以外の人のことをちゃんと想って、助け合える人。「あの人が困らないように、ちょっと準備しておこう」と考えられるかどうか。スタッフ同士で思いやりのある行動が取れない人は、お客様へのホスピタリティも出てこないと、ずっと仕事をしてきた中で感じています。視点を教えて育てられる人もいますし、もともと持っている人もいます。8室しかないのでパーソナルな部分がとても強くなる。スタッフ一人ひとりのホスピタリティを最大限に発揮するためにも、まずチーム内で良い意味で気を遣い合えることが大切です。——沼津倶楽部で働く面白さはどこにありますか?赤間: やはり、歴史的な建物の中で仕事ができること。なかなかできないことなので、それが一番推したいところです。そして、この価格帯だからこそ、普段の日常生活ではなかなか接点のないような方と対等にお話しできる。大企業の社長のような方もたくさんいらっしゃいますが、そういった方々にホテルや料理のストーリーを語る機会が、ここ沼津でできるというのは、なかなか無いことだと思います。もちろんお客様という視点はありますが、そういったコミュニケーションの中で、逆にお客様からも多くのことを教わります。歴史と文化を育もうとしているこの場所だからこそ、働きながら吸収できることがたくさんある。それは沼津倶楽部ならではのことだと思っています。文章・編集:田中幹人写真:田中幹人