東京から新幹線でわずか40分。数寄屋造りの母屋と、相模湾を一望するロケーションを舞台に、「温泉付きの極上レストラン」という独自のスタイルを貫く〈THE HIRAMATSU HOTELS & RESORTS 熱海〉。“本物”を見極めるゲストに選ばれ続けてきたこの場所では、豪華さを競うのではなく、静けさや余白に宿る贅沢を大切にしています。接客での「30秒ルール」、部屋に置くものをあえて減らすという選択、そして“控えめなサービス”を支えるチームの在り方。女将・荒井眞由美さんの言葉には、表には見えにくい「丁寧な仕事」の美しさと、それを支える人の育て方が滲んでいます。ひらまつ熱海が大切にしているおもてなしの哲学と、その現場で育まれる“プロフェッショナル”の姿を、じっくり紐解きます。数寄屋造りの建物がホテルに——この建物がホテルになった経緯を教えてください。この母屋は、宮大工の棟梁・木下孝一さんが手がけた、見事な数寄屋造りの建築です。もともとは個人の所有でしたが、あまりに立派なつくりゆえに、維持管理がとても大変だったそうです。「壊してしまうのは忍びない、けれど自分たちでは維持できない」──そう悩んだ元の持ち主の方が、不動産会社を通じて相談された相手が、ひらまつの創業者でした。実際にこの場所を訪れてみると、建物の美しさに圧倒され、そして眼下に広がる相模湾の眺めにまた驚かされました。とはいえ、「ホテルにするにはどうしましょう?」というのが始まりでした。このホテルは、まさにこの数寄屋造りの母屋が“主役”です。そこにあえて洋室からなる増築棟を組み合わせ、そのコントラストを楽しんでいただけるような設計になっています。熱海は、東京からもアクセスが良く、昔から文豪や政治家が集まる土地として知られています。だからこそ、お客様の目も非常に肥えている。そうした方々に満足していただけるかどうかが、このホテルの成否を分けると考え、社内でもブライダル事業の経験が長く、さまざまお客様に対応していた私が熱海の女将になりました。——開業してから、実際の印象はどうでしたか?やはり、熱海という土地には本当に“すごい方たち”がいらっしゃるんだなと実感しました。お名前を調べると情報がたくさん出てくる方も多い。今でも日々、「どこで知って来られたんだろう?」と思うような著名な方々が宿泊されています。でも、“本物”というのは、きっとわかる人にはすぐにわかってしまうんですよね。建物の佇まい、設え、そして海の景色──ここにはそうした“本物”の要素が揃っていると感じています。東京の夜景を見ながらのディナーも素敵ですが、特別な日を過ごすなら、ゆったりと海を眺めながら、美味しい料理を静かに楽しみたい。そんな方にこそ、この場所はぴったりのオーベルジュだと思っています。私たちが目指しているのは、「温泉付きの極上レストラン」。ホテルでありながら、レストランであるというコンセプトは、ずっと変わりません。必要なものだけを丁寧に——レストランや客室でのおもてなしに、どんな工夫をされていますか?ひらまつの中でも、熱海の客室はとてもシンプルです。必要なものだけを、丁寧に整えてご用意しています。というのも、ここを“自分の家のようにくつろげる場所”にしたかったんです。ホテルに泊まると、いろんな備品が並んでいますよね。でも実際に使うのはその中のほんの一部。だったら、数を揃えるのではなく、最小限のものにしっかりとお金をかける。そんな考え方で客室を整えています。レストランも同じです。音楽は流していません。無音の中で、海を眺めながら料理とワインを楽しむ──それが熱海でしか味わえない時間になると思っています。サービスについても、「しつこくならないように」と常に伝えています。あくまでもお客様の“空気”の中に自然と溶け込むようにいることが理想です。私たちのレストランでは「30秒ルール」というものがあります。お客様と30秒以上話してはいけない。これは、料理が一番おいしいタイミングで提供されるよう、会話の“引き際”をきちんと見極める技術でもあるんです。特にフランス料理は、お皿自体を熱くして冷めにくいようにはしますが、日本料理と比べて料理が熱々ではない分、温度のコントロールが重要。おしゃべりに夢中になって料理が冷めてしまったら、せっかくの一皿が台無しですから。一人ひとりがプロフェッショナルであること——スタッフに大切にしてほしいことは何ですか?一人ひとりが“プロフェッショナル”であることです。私が以前ブライダルを担当していた頃、なんでも内製化しようとする時期がありました。でも私は「餅は餅屋」だと思っています。花のことを一番語れるのは、やっぱり花屋さん。私たちは、その思いをお客様に丁寧に伝える役割です。だからこそ、採用のときにも「あなたは何を極めたいの?」と聞いています。その人の“芯”になるものを一緒に育てていきたいんです。もちろん、スモールラグジュアリーホテルでは、ひとりのスタッフがさまざまな仕事をこなします。でもその中でも、「自分はこれが得意」と言えるものをひとつ持っていてほしい。たとえば、お客様の荷物を運びながら「ワインがお好きなんですね」と話が弾んだら、ディナーのときに「先ほどボルドーがお好きだと伺いましたので…」とさりげなくご提案できる。そんな“自分らしい接客”がプロの仕事だと思っています。——荒井女将から見て、魅力的なサービススタッフの特徴とは?“控えめなサービス”ができる人は、とても魅力的だと感じます。決して奥ゆかしいとか、何も話さないという意味ではありません。食事中のテーブルの雰囲気を壊さず、空気を読みながら、必要なときにさりげなく会話に入れる。そして、自然に引いていく。その“引き際の美しさ”がある人は、本当に技術のある方だと思います。昨日はひらまつの仙石原でお食事をされたと思いますがいかがでしたか?――素晴らしい女性スタッフの方がいらっしゃいました。チーズを選ぶ際に、山羊のチーズが気になったのですが味のクセが強いかな?と心配したところ「このチーズであればドライフルーツと一緒に召し上がっていただくと美味しいと思います」とご提案いただき、とても美味しくいただけました。彼女は熱海でも一時期働いてくれていましたが、かつてひらまつの本店だったレストランで長年働いた経験があります。彼女のサービスはまさしく控えめなサービスを体現しています。お客様の不安な気持ちを察して手を添えてくれるような。彼女がすごいなと思うのはお客様と私が話している時に、お客様がパッと言った言葉を元に、説明しなくてもすでに用意していたりする。俯瞰して状況を見ているので後ろで話を聞いて、必要なものを探して用意できるんです。その場の空気を壊さずに、でも確実に寄り添う。まさに“控えめなプロフェッショナル”の姿です。——ひらまつ熱海のお客様には、どんな特徴がありますか?特徴的なのは、おひとりでのご利用がとても多いことです。そして、その方たちがまたリピートしてくださるんです。実際、お一人でいらっしゃるお客様の8割は女性、2割が男性という印象です。中には毎月のように来てくださる方もいらっしゃいます。「ひとりでゆっくりできて、美味しいものを食べられる場所って、意外と少ないのよね」とおっしゃる方が多いんですよね。ひとり旅の場合、目的が“食”になることが多い。そして温泉で静かにリフレッシュしたい。そういうお客様にとって、ひらまつ熱海はまさに「レストランのように使えるホテル」なんです。ホテルと考えると年に1~2回のご利用でも、レストランならもっと気軽に足を運べますよね。そんな感覚で来ていただけたら嬉しいです。歴史や価値を次の世代へ伝える——『ひらまつアカデミー』について教えてください。『ひらまつアカデミー』は、社内で行っている勉強会のようなもので、「そもそも、ひらまつってどんな会社なのか?」という原点を見つめ、もう一度皆で共有する場でもあります。私はブライダル部門の経験が長いので、その話をさせてもらうことが多いですが、それぞれのベテラン社員が、自分の視点から“ひらまつらしさ”を語っています。どんな思いで仕事をしてきたのか、なぜこの制度があるのか──表面的なオペレーションだけではなく、その背景や歴史も一緒に受け継いでいく。そうしないと、会社の“らしさ”が薄れていってしまいますから。最近は社外でも、ある短期大学と連携し、「ラグジュアリーとは何か」を若い方たちと考える機会をつくっています。ラグジュアリーホテルやブランドが増えている今の時代、実は“ラグジュアリー”の本質がわからないまま接客している人も多いのではないかと感じています。たとえば、私たちが使っている『ロイヤル コペンハーゲン』の器もそうです。「なぜこの器が価値を持つのか?」──その背景にある文化や哲学まで理解してこそ、真のラグジュアリーを体現できると思っています。社内外で形は違っても、「歴史や価値を次の世代へ伝える」という目的は同じです。それが、これからのひらまつの大切な役割だと感じています。困難に向き合える人の資質——最後に、一緒に働きたい人物像を教えてください。とてもシンプルですが、「ちゃんと挨拶ができる人」「ちゃんと目を見て話せる人」です。目を合わせられない人って、相手だけじゃなく、困難にも向き合えないことが多いんです。でも、目を見て挨拶できる人は、嘘がないし、前向きだと感じます。仕事って、最初から全部できる人はいません。でも、そういう人は自分に足りないことを少しずつ補っていこうとするんです。その姿勢こそが、プロフェッショナルへの第一歩なんじゃないでしょうか。私たちのホテルには、小さなチームだからこそ学べることがたくさんあります。そして、“プロ”になる道を、共に歩んでいけたら嬉しいですね。文章・編集:田中幹人写真:田中幹人